このサイトを見つけた、あなたへ。


このサイトは 「毛がはえるようになる情報サイト」では
本当に残念ながらありません。ごめんなさい。

当サイトは、今の私が出来る話をまとめたサイトです。
「全身脱毛症」になる前と、発病し、今までの出来事を記載しています。

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<<2012年8月更新しました>>
このサイトは2006年8月に製作し設置しています。
正直、自分の中では2006年に記事を一気に書き
ネット上にUPした時点で完結した気持ちになりました。
専門的知識を公開している訳でもないので、これ以上 サイトに
手を加える事、更新することは予定していませんでした。

このサイトの一番下の部分に【ご意見とご感想フォーム】を
設置しています。そこから届くメッセージは、この6年間 必ず
届くたびに読ませて頂いていました。ありがとうございます。
2006年から6年間。特にこの2年前からメッセージが増えました。
同じ病気を発病したご本人や、ご家族からのメッセージです。
中には とても丁寧に頂いたメッセージの中には、胸が
しめつけられる悲痛な思いもありました。
私自身、上記にも書いたように「専門的知識がない」者ですので
頂いたメッセージに【的確なアドバイス】は出来ないと思い
ご返信はいたしてません。

思う気持ち、伝えたい気持ちもありましたが、
全てにおいて、きっとやっぱり・・・
【死なないでください】と2006年に書いた文と同じになるからです。
ただ、ただ、第三者でしかない私ですが
このサイトを見た方に対して、伝えたい事はそれだけです。

何人かの方のメッセージの中に
「今はどうされててますか?また再発はされていませんか?」と
頂きました。ご心配を頂きありがとうございます。
2012年現在までに、再発はありません。
年齢は36歳となり、ちょうど発病してから丸10年がたちました。
高齢ですが、嬉しいことに現在妊娠5カ月目にもなりました。
主治医には10年前にストレス性(だと思われる)全身脱毛症になった事を
伝え、入念な血液検査も受けましたが、現在までに異常数値は
出ていません。妊娠期間中、出産後はホルモンのバランスから
抜け毛が多くなると言われています。もしかしたら・・・と、
少し不安な気持ちも過りますが、何でしょうね、不思議なもので
「ま、抜けたら抜けた時か」なんてアッケラカンとした気持ちもあります。
(自分でもビックリなんですが(笑))

6年前の記事を書いてからの私の良く言う言葉があります。
物事が上手くいかなったり、ケンカをしたり、どうしようもない時に

「もぉ〜!こんなにストレスMAXになるなんて!
 また毛が抜けたらどうすんのよ!! 絶対2度とごめんやわ!!
 だから、これ以上は考えない! 知らない! ハイ終了!!」
かなり横暴でいい加減な発言です。(言われた側は苦笑ものです)

だけど、きっとこんな事すら、今までの自分(発病するまでの私)は
言えなかったんです。なんでも立ち向かうんじゃなくて、
逃げる自分も大切だと、気がつかせてもらった気がします。

未知な病を経験した分、
私のこの先の人生は日々「未知な事に溢れている」と強く感じます。
考えたって解らないことだらけです。
だからこそ、楽しみつつ、たまには逃げつつ、続いていければと思います。

2012年、更新させて頂きました。
「全身脱毛病」と検索すると、沢山のサイトがヒットします。
これを読んでいる貴方が
何かひとかけらでも「ヒント」になったらと願います。

                          当ページ製作者Aより

 

 

 


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<<2006年に記載した記事は 以降↓になります>>
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当サイトは、今の私が出来る話をまとめたサイトです。
それは「全身脱毛症」になる前と、なった約2年の出来事を話しています。

私が全身脱毛になったのは2003年の5月でした。
当時の私は、悩み、苦しみ、自問自答する日々でした。

まず同じ症例の人がいないのか?と、インターネットで検索しました。
残念ながら当時は「全身脱毛」になった人の情報はありませんでした。
あるのは「円形脱毛」ばかりで、全身といった症例はなく
あったとしても「抗がん剤の後遺症」による例でした。

私の場合は後遺症ではなく、ある日突然のモノだったからです。
ある日 突然 毛が大量に抜け出して
まつ毛や眉毛、全身の毛が抜け落ちてしまって
その悲しみと向き合いながら、覗いたあなたに、
私の『それまで』と『それとき』と『それから』と『今』をお話したいと思います。
よろしかった長くなると思いますが、読んで頂ければ幸いです。
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まず最初と最後に きっと同じ事を書きますが、

    「死なないでください。」

私も何度も何度も死にたくて、死にたくて、
たまらなく逃げ出したくて、死にたい時がありました。
でもお願いです、死なないでください。
これが私がこのサイトを作ろうと思ったきっかけです。
それだけは心にとめておいてください。そして覚えておいてください。
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2003年5月のゴールデンウィーク初日。

私はそれまで3年間なじみの美容室で、九州から上阪して
一人で美容師になる頑張っているMさんに、最後のカットを
してもらっていました。研修生の頃にシャンプーをしてくれた
Mさんと仲良くなり、それ以来ずっと私の髪を切ってきて貰って
いたのですが、その年のゴールデンウィーク開けに、Mさんは
故郷の九州にもどり実家の美容室を継ぐことになったのです。
最後のカットの日は、ゆっくりと髪を切っていただきました。
その日の帰りに、近所でお茶をしようということになりました。
「またいつか切ってくださいね」と約束を交わして
笑顔でお店を後にして別れました。
その時にMさんが別れ際に、
「お仕事探しているなら、
 いっそ一緒に九州に来て美容師見習いしませんか?」
誘ってくれた言葉が嬉しくて帰り道、涙が出ました。
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私が髪が抜け始めたのは、別れた翌日の夜でした。

テレビを見ながら、無意識に右耳の上あたりの
髪をグイッと、とく仕草をしたら、指の間に間に
ビッシリと髪が抜けてからんでいました。
はじめは「え?なに?」と訳が分からず、何度も何度も
手でといては、抜け、といては抜けと、繰り返してしまい
右耳の上のあたりは、ごっそりと髪がなくなって地肌がでていました。
指で地肌を得れると、ゾッと震え上がる感触でした。
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当時、私は26歳、フリーター。
花屋でアルバイトをして、実家で暮らしていました。

古風な厳格な運転手業の父と、10年以上パート勤めの母と、
年の割りに自分の意見をはっきりと言う祖母の4人暮らし。
父とは幼少の頃から【確執】がありました。
父は私にとって【この世でもっとも怖いもの】でした。
あまり自分の実の父を悪く書くのは気が引けますが・・・
幼少の頃は、体罰が多かったのですが、年を取り女性という性からか
手を上げることは少なくなりましたが、言葉の暴力「人格否定」と
言える発言を日々受けていました。
「生きる価値もない。産まれてこなければよかった。
 ゴミや虫けら、ウジムシ以下だ」このような言葉のオンパレード。
体罰による"しつけ"は、何か良くないことをして叱られる意味を
持っている訳ですが、
残念ですが私の家庭の場合、父の場合は【酒乱】だった為
酒を飲んだ日には、どんな理由もなくても受けていたといっても嘘ではありません。
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私立高校を卒業後、某関西では有名な運送会社に入社しました。

本社のシステム部勤務として入社したはずが1週間後に、
営業支店での事務勤務を命ぜられました。
自分以外の、数十名の中年男性社員のみの職場には、
女子更衣室もトイレすら、用意してくれてはいなかったんです。
吐き気に恐れながらも、本社に連絡をして何度も改善をしてもらいましたが
次は、陰湿なセクハラにあいました。
更衣室のロッカーの鍵の合鍵を作り 私が居ない時間に入室したり、
夜間に誰も居ない時間に、女子トイレを使用していたり、
私が出勤し通過する廊下で、わざとズボンを脱いだ姿でいたり。
本社に訴えでても、何も変わりがなく、ただ泣き寝入りでした。
日々が苦痛になり、結局、退職を余儀なくされました。
退職の日、本社の社員が支店まで出向して私に吐き捨てた言葉があります。
「君、18歳で入社して10ヶ月の女子社員に、会社は月給23万もだしてるんだよ?
 もし本社勤務だったらねー、せいぜい17万だったわけ。わかる?
 社会って甘くないんだよ?なのに君は甘すぎない?」
その後、一時期、中年男が怖くなりました。
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知人の進めでお花屋さんを紹介してもらいバイトをはじめました。

アルバイトとして6年間、花屋さんで仕事をし、コツコツ花の勉強をして
7年目に、大手チェーンの花屋さん移籍し、店長としてお仕事を
任せてもらいました。移籍し際に受けた面接で、勤務して2年後の8年目には
アルバイトから正社員になるお約束をしました。
「父に認めてもらえる人間に少しはなれるだろうか」
そんな思いが胸のどこかにありました。
父は、最初の運送会社を辞めた時から、
私の事を「人として認めてくれない」状態でした。
父の中にある【一般常識、一般人=社会人=正社員】だったからです。
どんな理由があって退職を余儀なくされても、父は頑として許さず
「セクハラを受けるお前が悪い」と言っていましたから・・・。

しかし、8年目になっても約束通りの正社員にはしてもらえなかたのです。
約束が違うじゃないかと、詰め寄りました。
「アルバイトしか元々、当社は枠を持たないんだよね〜
 面接で約束したっけ?あーそう言ったかもしれないけど、そんなの無し無し」
ショックでした。2年間、人より何倍も努力して苦労して、嫌な役も引き受けて
頑張ったのに、全てが真っ赤な嘘。それを2年も信じていた自分。
何もかも馬鹿馬鹿しくて、その場を無言で立ち去りました。
本当に今思えば 少しは言い返せばよかったなと、後悔しています(苦笑)
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明日から仕事・・・どうしよう?

アルバイトぐらいなら・・・すぐに見つけられるよね・・・。

だけで、8年間も花の仕事をしてきて
自分の中で夢も希望もありました。
それもこっぱ微塵にも無くなってしまい
・・・何もしたくない。
これが当時の気持ちでした。
でも私は何もしなかった日はありませんでした。
翌日から就職活動です。
何もせず自宅に居る、そんな事をすれば
父にどんな暴力と罵声を受けるんだろうと思うと、恐怖で
「働かなきゃ、働かなきゃ」と、そればかり思っていました。

8年のキャリアを履歴書に書いて歩き回っている最中に
髪が抜けはじめたのです。
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髪が抜け始めて あまりのショックと戸惑いで
その晩は、唯一 心を許せる母にも言えずベットに入りました。

一睡もできませんでしたが・・・。
翌日もブラシですくと、ビッシリと抜けている毛。
嗚咽がとまらず、逃げるように帽子をかぶり、家を出ました。
父にも母にも誰にも、その姿を見られたくなかったからです。
近所の大型スーパーの化粧室の個室に逃げ込み、
手鏡とブラシで髪を掻き分けて見ると、右耳上からぐるりと
左耳の上まで、頭の下半分がスカスカになって肌が見えていました。

悪夢だ。

それしか思いつきません。
涙が止まらなくて、ずっとずっと泣きました。
人が出入りする気配がある度に、声を殺しながら、随分長い間
そこで泣いていたはずです。
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私が最初に相談したのは、その日の晩 泣きはらした顔を
観て不審に思った母でした。

母に、震えながら翌晩のことからの今日までの事を話し、
「どうしょう?どうしょう?どうなっちゃうの?どうしよう・・・」と何度も聞きました。
母も涙しながら、頭をさすり
「大丈夫、大丈夫。円形脱毛ならお母さんもなったし、
 お嫁に行った姉も昔なったばすだから、きっと遺伝。
 すぐに治る。治る。泣いてたら治らないよ」と
力強く言ってくれました。でも、きっと母は私の頭を見て、手で肌に触れて
私と同じようにゾッとしたのに、違いありません。

でも、私はその言葉を信じて・・・いえ
本当は全く信じていませんでした。
信じようと思ってしました。それしかなかったからです。
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次に相談したのは、当日交際9ヶ月の彼氏でした。

「毛が大量に抜ける・・・、私、はげるかもしれへんよ・・・死ぬかもしれない・・・」
「は?なにいってるん?大変なん?訳が分からんわ!とにかく明日会おう、なっ!?」
2つ年下の彼も、フリーターをしていて
どちらかといえば無愛想で無骨者。
芸術系肌で、想像できない奇行(?!)をやってのける
他人の視線はお構いなしの変わり者でした。

翌日近所のファーストフードで待ち合わせ。
目深にかぶった見慣れない帽子の私を観て
「自分、帽子、似合わんなぁ〜」と第一声。
全くと言っていいほど私は普段に帽子をかぶったりしなかったので、
無理もないのですが、
さすがに私もムッとして「しょうがないんだから!」と言い返しました。
そんな出だしの会話が気を楽にさせたのか
今、私の体のことを率直に話しはじめました。
帽子を少しずらして、抜け落ちたツルツルの耳の上を見せると
流石に彼氏もただ事ではないなと、いった表情でした。

「病院には行ったんか?いかな!
 え〜っと内科か?皮膚科?ん〜外科もかな?」
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翌日から私は、近所の内科に3件回り皮膚科を2件周りました。

同じようにヒアリングをして、血液検査をされ
その全ての医師からは
 ・きつい薬をのんだのじゃないか?
 ・生活リズムが不規則じゃないか?
 ・心的ストレスが原因でしょ
 ・薬は・・・心的なら何も出せないし。
 ・うちでは・・・何もいえない。

私が願ったことは
原因を知りたかったわけじゃないんです。
 「今すぐに毛が抜けるのを止めてください」
 「今すぐに毛が生えるようにしてください」
医師は全知全能ではないのは分かっていても
無理な難題だとは知っていても、これしか私には
思うことはありませんでした。
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そして抜け始めて1週間たった私は
頭髪だけでなく、全身のあらゆる毛、体毛が抜けました。

帽子を被っても、襟足はツルツルでお坊さんのよう一目で判ってしまいます。
眉毛やまつ毛もなくて、ノッペラボウっと言った感じでした。
鏡に映った自分を直視できない。
外出が出来ない状況におちいりました。
そんな時に、以前押入れを掃除していたら
母の若い頃に使った「人毛で作られたカツラ」を思い出しました。
かなり古いものでしたが保存箱は綺麗なままで
中身もキチンとしていたので、私はそれを被り
眉を書き、私の住む地域では一番大きな県立病院に向かいました。
この時は母もパートを休み付き添ってくれました。
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内科で往診した時、医師と看護士さんが患部を見せてくださいと言い
恥ずかしい気持ちで震えながらカツラをとって
「・・・こんな感じです」と、ツルツルの頭皮を見せました。

医師は頭の皮膚を触りながら「アトピーとかないですよね?」と
言いました。私は皮膚がどちらかといえば強いほうで
肌荒れもあまり酷くないほうでした。
「アトピーではありません」と言うと、「ですよね〜」と
答えが返ってきて、カツラを被っていいと促されました。
「原因は心的ストレスですかね・・・
 だったら精神科とかじゃないんですか?」と尋ねられました。

私の中の何かが、

ブチッンと大きく音を立てたのをはっきりと覚えています。

あぁ誰も助けてくれないな。

これは間違ってたな・・・

何で私、今 こんなに恥ずかしい思いして診て貰ったのかな?

馬鹿みたい。

全部馬鹿みたい。

ちょっとした期待や、ささやかな希望も
この時点で無くなったと思います。

だって、精神科は、毛は生やしてくれないじゃないですか!!

私の答えはこのな感じで、とてつもない脱力感に襲われながら診察室を後にしました。

診察室の前の長椅子で待っていた母が
「どうだったの?大丈夫?」と聞いてきても
私は「だーめだった。駄目駄目〜。あぁーもぉっ」と小声で言うぐらいでした。
その直後に診察室にいた看護婦さんが、追いかけるように
出てきて、私と母を見て こういいました。
「あなた・・・強いわ・・・。私びっくりした。
 女の子で、こんな症状でも自分の足で来るなんて・・・
 がんばってね。きっといい方法がみつかるかも、ねっ。」
その時にブァッと涙が溢れてきて泣きました。

病院の帰り道、バスの中で、母に私は
「毛がなくなった、もぉもっと人間じゃないよね
 お父さんは、もっと怒るよね?」と聞きました。
母は「そんなことないよ、そんなこと・・・」と言いましたが、
母にもなんとなく、その後日の出来事を
予想していたかもしれません。
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同じ家に暮らしながら、父の生活リズムと私の生活リズムは
忙しくなった2年前からずれていて、日曜じゃないかぎりは
顔を合わすこともありませんでした。

だから、私の身体の事は父は随分後に知ったのです。
隠しきれることは決して出来ないのは分かっていましたが
自分から切り出せず、どうしょうかと日が過ぎ
全身脱毛になってから2週間ほどして、その日はきました。

同じテーブルで食事を取るので、不自然な私の姿に
「なんだそれは?」と詰め寄られ、母が説明すると
父の怒りの矛差は母に向かいました。
どうして病院に連れて行かない?いったい何なんだ?と、
繰り返し母を責める言葉に、私は被っていたカツラをとり
父に向かって、こんなことを言いました。

「私はこんな風になった。原因はストレスだと思う。
 病院に行っても薬もないので今はどうしようもない。
 精神科に行けばと言われたけれど、精神科にいけば
 毛が生えてくるとは思えない。でも、ちゃんと
 生活します。仕事もします。どうか許してください。」

謝りたかったんです。
きっと自分の娘が 想像できない酷い姿で目の前に座っていたら、
何て嫌だろうと思ったからです。
それがわたしからの精一杯の言葉でしたが、父には届かず
返された言葉と暴力は、ここには書きません。酷いものでした。

泣き叫びながら母と祖母は「この子は何も悪くない!」と
覆いかぶさって助けてくれました。
祖母が泣きながら、身体をさすってくれていた事は良く覚えています。
父は罵声を浴びせ、叱咤し、食卓の物を全て壊した後
震えて小さくなって泣く私に向かって拳を見せて
「殺してやる、殺してやる」と言った事が、今でも深く深く心に残っています。
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翌日から父は1年以上
私と顔をあわせることがありませんでした。

ただ一方的に父の執拗なる激しさを書くと、それだけが
目に入るでしょうが、
さっきも書いたように、生活リズムがずれていれば
合うのは日曜ぐらいでしたが、父があえてその時間を
ずらしたりして、私と距離を置いていたのです。
それは今、はっきりし分かっているのですが
父の不器用なまでの【思いやり】でした。
殺してやると言ったのも、突然、訳の分からず
目の前の醜くなった娘を、これからの先を思い
不憫になった衝動からでした。

その時の私には、その父の気持ちは理解できず
ただ現実の自分は「生きる価値もないのか」と泣くだけでした。
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母はこの後、私にお金をくれました。

それは私が結婚する時の為にと、貯めていたものです。
父との一件で、実家で暮らすことが
私の身体のためにも、絶対によくないと思ったからです。
正直、私の家は裕福ではありません。
そのお金が日々の生活に使ってもおかしくないと
私は知っていたからです。
知っていても私は、そのお金を受け取って不動産屋さんを回りました。
もちろんカツラをして眉を書いて・・・。
カツラだけでは、怖くてその上から帽子を深くかぶって。

2つ年下の彼氏は、全身脱毛になった私を見て
「・・・何ていっていいかわかんないけど、協力する」と
言ってくれました。少々躊躇いがちな言葉の端々を
感じるときに、私は逃げたくなりました。
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全身脱毛に完全になった時から私の身体の周りから
離れなくなったものがあります。

それは「自分の死」です。

自分でも、脱毛の原因は過度のストレスだと判っていても、
もう今の自分は、どうすることもできない。
自分を自分でコントロールできない歯痒さ。
自分の意思とは全く無関係の所で進行していく恐怖。
この先【治る見込みが無い】突きつけられた現実。

誰の目も見たくないし、見られたくない。

だから死にたい。死んだら終わる。逃げられる。
痛いかもしれない、怖い。
だけど、この恐怖が終わるのだったら、それは
たったひとつの救いかもしれない。

そう思って何度も何度も「自分の死」について考えました。

本当に、本当に恐ろしいです。
電車のホームに立って電車を待っていると
後ろで誰かがストッンと肩を叩いてくる。
それは自分で。
フラリと体重が前にかかってユラユラする。

これを何度、繰り返したか分かりません。

「自分の死」は自分で決めてしまっても
いいものじゃないかと思い追い詰められる。

でも、いざ「自分の死」を自分に突き詰めると
痛い
怖い
嫌だ

たったこの3つです。
痛いのも嫌。怖いのも嫌。嫌なのも嫌。
全て嫌なんです。

ガクガクと自分で自分に手を下すことに恐怖しては、
そんな【いくじなし】な自分を呪うばかり。
「どうして私だけ?」
「いっそ死んじゃっほうがマシじゃないか」
日々を呪う言葉ばかりで、泣き暮れては
翌日になって・・・
それを繰り返していました。

私は、どちらかといえば
 『死からも逃れたかった』だけでした。
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その反面な行動、新しい住まいを探そうとしいました。
環境を変えようと必死でした。

それは何かから逃げる絶好のチャンスだとも
思っていたからです。
不動産を数件周り、いい物件をみつけて、仮押さえまでしてもらった晩、
母は私に
「一人で暮らすのも悪くないよ。
辛くなった帰ってきて良いんだし」と言葉をかけてくれました。

その時、私はハッとしたんです。

逃げ回ってる自分が一番、恥ずかしい。
誰もがきっと逃げてもいいとこだよ、と、言ってくれるシーンだから。
だから、そこはあえて逃げないのがベストなんじゃないかと。
元々、元来私の性格は、真っ向勝負の、はねっかえりだったからですかね(笑)
私が全身脱毛になったから逃げる口実が出来ただけで
私は家からも家族からも、自分の【生】からも逃げ出すのだけど
それは自分が望んでいる形、軽く言えば『かっこ悪い』からです。
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私は一人暮らしではなく、実家でそれからも過ごしました。

母は「辛いこと多いよ?大丈夫?」と何度も聞きましたが
私は、私の中のかっこ悪い自分に成りたくなかったし、負けたくなかったからです。
きっと「自分の死」よりも
私は「自分に生に負けること」が
絶対に許せなかったから。

と、かっこいいことを言って
正直、それが言えるのは「今」だからです。
当時は毎日毎日『ゆりかえし』でした。
鏡を見る度に、死にたい、死にたいと思い、
人とすれ違って、「カツラだと思われたんじゃないか」とドキドキする度に
消え去りたいと・・・。
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仕事をして自分が働いたお金でご飯を食べる。

社会人になって、案外楽にそれは出来るんですが、
当時の私は、カツラに眉もまつ毛もない人。
花屋は諦めました。サービス業ですから。
正直、辛い思いをしてまた花に触れる環境を
自分では無理だと思ったからです。
できれば、デスクワーク。人とあまり接せず
自分でコツコツできる仕事を探そうと、出会った会社は
某IT関係のネットショップ運営スタッフ募集でした。
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面接に行く時かぶったカツラは今でもよく覚えています。

ちびまるこちゃんのような、オカッパヘアーでした(笑)
前日に東急ハンズのパーティーグッズコーナーで
少し高級そうな箱に入った「お洒落ウィッグ」を購入。
本当は明るい栗色、一般的な自然なタイプが
よかったのですが、翌日の面接の為にと、真っ黒を選びました。
会社の近くの百貨店の化粧室に入り、新しいカツラにして、
人の多いオフィス街に出ました。
それまでは出歩いても極々近所だけで
会社があったのは、神戸の三宮。非常に人が多居場所です。
ただいつもと違うこと、帽子が被れないこと。
だって面接なんですもの、帽子は無理ですから・・・。
だからカツラだけで外を歩いたのは、その時が初めてでした。

一歩歩いては、ドキドキして座り込みたくなる衝動にかられました。
前から歩いて来た人。今横を過ぎた人。
頭をみてなかった? 見てたよね? 変だっと思ったんじゃないか・・・。
そんな思いで、普通に歩きたいのに
えらく早歩きで、オフィスまで行ってしまいました。
その方が目立ったはずです、きっと(笑)
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カツラで受けた面接。

履歴書の写真も前日カツラを買って帰った時に
撮ったもので、見事にクッキリとナイロン質な
お人形さんのような写真で出来上がっていました。
面接官は、会社の理事長さんが直々でした。
私は最初に言いました。
「私は今、全身脱毛という病気だとおもうのですが
 そのため毛がありません。この髪はカツラです。
 ですが、仕事には問題はないと
 思っているんですが、大丈夫でしょうか?」と。
早口で一気に言い切りました。
理事長は、キョットンとした顔をして、履歴書と
私の顔を3度見比べて
「いいんじゃない? IT業ってPC相手で容姿なんて関係ないし。
 ってか、君。元気いいね(笑)ハキハキしてて(大笑)」

そのまま、その会社に即入社するこことなりました。
この会社には、約3年間お世話になりました。
マイデスクを頂いて、パーテーションを区切って
くださったので、当時の私は他人の目にさらされることは
ほとんどなかった。その前に、そんなことをしなくても、
会社のスタッフさん達は、良くも悪くも他人様の事は
我関せず主義な個性的な人ばかりでした。IT業って不思議です(笑)
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全身脱毛になって2ヶ月目、7月の頃は、
真夏のカツラ生活は非常に辛かったです。

頭皮から汗が出ても、止める髪も無い為に
皮膚とカツラの間のネットや人工皮膚ゴムにビッチャリと付いて
頭皮が蒸れてしまい、ヒリヒリしてくるからです。
むろん眉とまつ毛が無いため、汗は直接目に入り
目も痛くてたまりませんでした。
更に毎日カツラを被っているので
カツラの毛がナイロン質で頬に当たるとチクチクと
静電気がおこり、ほっぺたもよく赤くなりました。

1週間被りつづけて、汗を吸ったカツラは
とんでもなく匂います。
ウィッグシャンプーを使っても、毎日毎日の事で
毛の痛みも激しくて、ボサボサに。
だから、同じ長さの同じカツラを5つ買い
ローテーションでかぶっていました。
後、頭皮の汗対策に「黒いガーゼのハンカチ」を
使っていました。そのままだと分厚いので
薄く切りそろえて、頭皮とカツラの間にかませて
いるだけで、かなり吸ってくれます。
黒にしたのはカツラの間のネット越しに見えた時にも
分からない為でもありました。

カツラは、さっきもかいたハンズに売っていた
6千円ぐらいのお洒落な物を使っていましたが、
冬の時期は月に一回1個新調したりしていました。
美容室にいったらそれぐらいするし・・・と自分に
言い聞かせていたりして(笑)
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私は正直、ラッキーです。

全身脱毛になった後に、変わった物と、変わらなかった物を比べると
比較的に「変わった物が少なかった」からです。
もちろん毛がなくなったのは、大きく変わったことですが、
自分自身の事ではなく、あくまでも『周り』の事です。

まずは友人。
もうかれこれ、8年ぐらい仲のいい友達たちが、15人ぐらいまとめています。
ひとまとめてしまうぐらいに、いつも皆でワイワイと
遊びに行ったりして、年に一回、秋には全員で旅行に行くのがお楽しみです。

その年は、私は「皆に嫌な思いをさせるかもしれない・・・ので行けない」と
旅行の計画を立てる飲み会で、カツラ姿で誤りに行きました。
ほとんどの友人達には、その日まで会っていなかったので、
実際にカツラ姿の私を、目の当たりにしたはずなのに
「何が問題なん?別にいいやん?旅行いけばいいやん。なっ!」と
全く以前と変わりのないやりとりで、その後はいつものように
馬鹿な話で盛り上がり、「またねっ」と手を振って帰った。
まだまだ『自分の死』を思う気持ちがゆりかえす私は
手振ってくれた友人達が、こっちに留まらせてくれたと思っています。ありがとう。
その年の旅行は本当に楽しかった。
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次に家族。

父との確執は、会わない距離で緩和され私の中にも"ゆとり"が出来ました。
IT会社に入社し、その年の冬。12月の私の誕生日に
出かける私に、母が差し出した手紙は、今でも大切に持っている。
「誕生日おめでとう。大変な一年でしたね。まだまだ
 辛いことばかりでしょうが、あなたの強さは私までも
 強くしてくれました。あなたを産んで良かったと思います。
 これからも笑顔を忘れずに。」
貰った日から手帳に入れて大切に持っています。
一時期、母もあちこち調べて回ってくれていたことを
私は知っています。こっそりと、後日、姉から聞きました。
遠方の内科や皮膚科、精神科までも回ってくれていました。
仕事が終われば、すぐに帰宅して祖母と父の世話で大変なのに
私の事までも増えて、本当に大変だったはずなのに・・・。
ありがとうは私の方が言う言葉でした。
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そして、一番の変わらなかった人。
それは彼氏だ。

私が一番泣いている姿や、自分の死についてゆりかえして
いる場面も、全てを彼は真横で見てきた。
時には真正面で見ていたはず。
ただ彼は「何も変わらないし、変わってなんかいない」
それが私に返す言葉でした。
最後まで、その一言。
病気になる前も、病気になった後も、
生き生きしていた私も、死にたくなった私も
何も変わらないと平気な顔で言ってのける彼に
時には強く当たる時もありました。
「じゃあ、今すぐ元に戻してよ!」と無茶を言って困らせた
こともしばしば・・・目の前で死のうとしてしまった事もあります・・・。
それでも嫌な顔ひとつもせずに、ただ横に居てくれました。
それがどんなに大変なことかと。

「好きな人が、病気や怪我で、元通りにならない姿になっても
 以前と変わらず、好きで、愛し続けられることは出来る!」と、
綺麗な言葉は口では言えるでしょう。
でも現実に出来る人って少ないと思います。
現に、私は鏡に映る私を大嫌いでしょうがなかったから。
結構、自分が好きなタイプでしたから、嫌いになるなんて
思いもよらなかったんです。醜くなったら自分でも愛せませんでした。
でも、ここにはいたんですよね、そんな奇特な人が。
たまたま、それまでに出会っていて、たまたま病の時に立ち会っていた
たまたまとしかいえないですが、
彼氏にも感謝しますが、その『たまたま』を一番感謝したいです。
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仕事にも慣れてきたある日、会社の関係で
とある製薬会社のプロデューサーさんと会う事に。

その方は美しい女性で、一年の半分はパリやロンドンと
グローバルな活動を行っている人でした。
初対面の挨拶を交わした時
「あなた、ウィッグよね? それ? お洒落で?
 わたしもウィッグ好きなの! 色々ともってるのよ」

「私は全身脱毛病で・・・髪の毛が無いんです」

「まぁ! そうなんだ! じゃあ、尾方君と一緒じゃん! そっかそっか!」

テンションが高く、終始笑顔で話す彼女に
私はあっけに取られていました。
尾方さんとは、マラソンランナーの尾方剛さんです。
その後、彼女に詳しく聞いて知ったのですが、尾方さんも
ストレス性で全身脱毛症になった方だったのでした。
当日はその事を公表していなかったので、ネット検索しても、
2004年以降にしか記述された記事はありませんでした。(今はあります)
彼女はお仕事関係で、以前尾方さんと会ったことがあり、
当時全身の毛がなかったとのことでした。
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「たしかねーきっと、もうちょっとしたら毛、出てくるのよ!」

「え!?それは!?」
「でも、それって凄く硬くて太い剛毛って感じのやつ。
 それはね、残念だけど1cmぐらいで抜け落ちちゃうのよ
 毛根に残ってるのかちょっと出てくるだけで、ちゃんとした毛じゃないのよ。
 でも、それが抜け落ちた後で、ウブ毛が生えるはず!  そしたら安心よ!」

彼女のアドバイスは
私にとって本当に助かりました。
だって全く同じことが 私にも起こったからです。
太くて硬い毛か頭皮からビッシリと出てきました。
しかし1週間もしない間に、ポロポロと抜け落ちました。
もしもこの話を聞いていなかったら、私はまた恐怖と悲しみで
どうなっていたか分かりません。
私は知っていたから、不安に感じず、次なるウブ毛に
希望を持ってみたんです。

ただ『ウブ毛』と言ってもどんなものか・・・

お風呂に入る時と寝る時以外は
カツラを被っていました。
真冬だけは、眠るときにあまりに頭が寒すぎて
ニット帽を被っていました。
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年が明け2月頃に変化がありました。

頭皮の表面が茹っているように白いフワフワしたものが出ている。
それがウブ毛でした。

正直私はウブ毛をみてガックリしました。
こんなのは毛とも呼べないじゃないかと。
腕やおでこに生えているのじゃ、髪には見えない!
ガックリと気持ちが沈みました。

その日から数日、シャワーでいつものように
頭皮を手のひらでマッサージしながら洗うと
サワサワとしてきます。風呂から上がって
鏡を見ると、ウブ毛に雫がついて、キラキラしている
私のスキンヘッド。
プッと笑いがでてしまいました。
初めて鏡をみて笑ったのは、この日かもしれません。
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それから日に日に、ウブ毛は伸びました。

2cmぐらいになった頃、根もとの毛根あたりから
まるでストローで墨汁を吸い上げたように
黒く染まってきました。
あんまりに嬉しくて、それまであまりカツラを取ったところを
見せなかった彼氏に、クリクリの頭を見せたくらいです。
母もあまりに嬉しかったのか、何度も撫で回していました。

それからは驚くほどのスピードで私の髪は伸びました。
髪質はやわらかくて、たとえるなら「春雨」みたい(笑)
それが渦を書くように伸びて全部を覆った頃
眉毛もまつ毛も生えそろって、依然と全く同じようになりました。
もちろん腕も脇もアンダーもです。
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カツラを外した日。

それは丸一年と2ヶ月。
7月の日曜に、まだ恥ずかしくて あまりにも
ベリーショートの髪型の私は 白い帽子をかぶり
兵庫県立美術館で彼氏と私の共通の大好きな画家である
クリムト展にいきました。

どんどん伸びる髪をみて、友人達は「伸びるの早っ!」と笑います。
どうも先を切らず、産まれたての髪の状態は、育成が凄いみたいです。

カツラをせずに外に出られる幸せは
同時に、こんなことを強く思いさされました

「あの時、死ななくて良かった」

何度も死のうとしたけど、今ここに私はこうして笑顔でいるのです。
他人から見れば、些細なデートだけでと思われるかもしれませんが、
何にせよ笑える日が来た、この現実を胸いっぱいに感じられたからです。
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そして2005年の12月に約束を果たしに飛行機に乗りました。

私が髪が無くなって泣き暮れていた時に
そんな事を全く知らずに「元気ですか?髪は大切にしてる?」と
メールをくれた九州に帰った美容師のMさんからでした。
「もしももう一度、髪が伸びたら、最初に切ってもらおう」
その時は、曖昧に思っていた誓いでしたが
髪が伸びるにつれて、これは「願掛け」だったかもしれないと
思って、私はMさんのいる宮崎のお店に行きました。

伸びた私の髪の長さに、ビックリしながらも
「よかったですね。おめでとう」と言って切ってくれました。

実はその時切った髪は、記念で今も箱になおしています。
髪をよく見ると、毛先はウブ毛の時のままなので、ナイロン質で
毛先は尖っています。(書道に使う筆先のよう)

全身脱毛病の最中は、ほぼ一枚も写真が残っていません。
カツラ姿は数枚程度手元にのこっていますが・・・
ですので、唯一 全身脱毛病だった『証』は、
切り落とした毛先だけだったりします。
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今の私についてですが、

2006年の夏に、2つ年下の無骨な彼と結婚をしました。
父とバージンロードを歩く時に、
「一歩一歩ゆっくりでいいんやで。いそがんでいい。」と
小声で言われたことが、耳に残っています。
祝福の声の中、旦那様になった彼氏はサプライズで
私への手紙を読んでくれました。
感謝の言葉と共に、当時の私について こう述べていました。
「当時は辛かったですね? 側に居て本当に貴女が苦しんでいる
 姿を見るのが、私も辛かったです。でも貴女は、私が思って
 いる以上に、気丈で凛としてい、病にも立ち向かうのに
 私は圧倒されっぱなしでした。こんなに『生命力に溢れる人』を
 私は見たことが無くて感動すら覚えました。本当にありがとう。」
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今も思います。

    明日 また髪が抜けるかもしれない。

    今度は生えてこないかもしれない。

生きていれば楽しいことばかりじゃないです。
その恐怖はあります。ずっと離れません。
たまに精神的に辛いことがあった時は
もしかしたら・・・また・・・
もしかしたら・・・また、と眠れない夜が今もあります。

決して私は強い人間でもありません。
どちらかと言えば弱い人間です。

痛いことや、苦しい事に
嫌なことから逃げて来た弱い弱いタイプの人間です。

ただ「生きた時間の楽しさ」が
私の大切な「生への喜び」になっています。

だから今もこうしてここに居ます。
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最後にも書きます。
今、死にたいと思って このサイトに出会った、あなたへ。
死なないで下さい。

生きた時間の喜びは、今は無くても、この先にあります。

─────────────────────終────




・・・ お詫びと祈り ・・・

『全身脱毛病』についての知識や情報ではなく、あくまでも
自伝的な内容とメッセージが多くなってすみません。
ただ同じ病気の人に教えてあげたいんです。
「貴方はたった一人、この世で病になった人じゃない」と。

今後、インターネット及び多くの症例や書籍等で
『全身脱毛病』についてのより良い情報や朗報を期待しています。

                                当ページ製作者Aより
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